「わたしは光をにぎっている」100年前の詩から考える人類共通の悩みとその向き合い方

人が悩むのは過去のことか未来のことだと言われています。

そんな悩みと向き合う方法は現在、「いま」に集中すること。

映画「わたしは光をにぎっている」にはそんな人類共通の悩みと向き合い方が込められています。

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中川龍太郎監督のメッセージを考察(ネタバレ含む)

「わたしは光をにぎっている」に監督が込めたメッセージは、「現代に必要な生きる覚悟」です。

山村暮鳥の詩

本編に登場する山村暮鳥の詩は「人類共通の悩み」と「向き合い方」が読まれています。

映画タイトル「わたしは光をにぎっている」は、山村暮鳥(ぼちょう)の詩「自分は光をにぎっている」からとられてもいます。

『自分は光をにぎっている』/山村暮鳥

自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
しかもおりおりは考える
この掌をあけてみたら
からっぽではあるまいか
からっぽであったらどうしよう
けれど自分はにぎっている
いよいよしっかり握るのだ
あんな烈しい暴風の中で
掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあっても
おゝ石になれ、拳
この生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎっている

出典:『山村暮鳥の世界』筑波書林

国立国会図書館デジタルコレクションにて読むことができます。

詩の意味

山村暮鳥の詩は、

  • 光=未来
  • からっぽではあるまいか=未来への不安
  • おゝ石になれ、拳=「いま」に集中する

と教えてくれている気がします。

主人公・澪は「スーパーのバイトすらできない自分」に悩みますが、祖母・久仁子のアドバイスから「いまできること」を頑張ることで変わっていきます。

100年前に刊行された詩集

この詩は大正10年に刊行された山村暮鳥の詩集「梢の巣にて」に収録されたものです。

西暦で言うと1921年、いまから100年前の詩ということになります。

100年前の人も悩むことは同じだなんだなと思わされます。

クラウドファンディング

劇中にて祖母・久仁子から上京前の澪(みお)に渡された詩集。

すでに終了したクラウドファンディングでは実際に劇中で使用された詩集(初版)が1名の方に贈られています。

大正10年に印刷・発行された大変貴重な本です。劇中では澪役の松本穂香さんが持ち歩いておりました。

出典:《松本穂香主演》 映画『わたしは光をにぎっている』をより多くの方々へ!!

監督が詩を選んだ理由

暮鳥さんの詩が今の時代にとても合っていると感じたのが一番の理由です。

出典:Cinemarche中川龍太郎監督インタビュー

インタビューからは監督がこの詩を選んだ理由が強く感じられます。

ロケ地

再開発され、なくなっていく場所やモノを象徴する場所として登場します。

「わたしは光をにぎっている」には特徴的なロケ地が3か所登場する。

  • 澪の実家(長野県野尻湖)
  • 澪の下宿先(清瀬市にある伸光湯)
  • 下宿先の街並み(立石駅通り商店街など)

もちろん他にも様々なロケ地が登場します。

監督がロケ地を選んだ理由

中川龍太郎監督がロケ地を選んだ理由は、映像として残しておきたかったからです。

中川龍太郎監督は本作製作のきっかけをナタリーインタビューにて次のようにおっしゃっています。

すべてがなくなる前に映像で残しておきたかった

出典:「わたしは光をにぎっている」特集

映画に登場するロケ地はまだまだ元気な場所もあります。

しかし伸光湯はすでに閉業しています。

なくなっていくのは仕方がないけれど、何とかして残していけないかという中川監督の覚悟を感じます。

あらすじ

亡き両親に代わって育ててくれた祖母・久仁子の入院を機に東京へ出てくることになった澪。都会の空気に馴染めないでいたが「目の前のできることから、ひとつずつ」という久仁子の言葉をきっかけに、居候先の銭湯を手伝うようになる。昔ながらの商店街の人たちとの交流も生まれ、都会の暮らしの中に喜びを見出し始めたある日、その場所が区画整理によりもうすぐなくなることを聞かされる。その事実に戸惑いながらも澪は、「しゃんと終わらせる」決意をするー。

出典:映画『わたしは光をにぎっている』公式サイト。

映画「わたしは光をにぎっている」は、「記憶しておくべきこと」と「いまを生きる覚悟」を中川監督からのメッセージとして強く感じます。

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