映画『ハムネット』の音楽・サントラを考察!マックス・リヒターの魔法と奇跡のエンディングの裏側

映画『ハムネット』の音楽を担当した作曲家のマックス・リヒター
現代クラシック界を代表する作曲家のマックス・リヒター。彼は、愛する子どもを失うという目に見えない「悲しみ」や「喪失」に、透明感のある音楽で静かに寄り添った。
Image: Max Richter – Reflecting on Hamnet – YouTube 2026年4月14日閲覧

映画『ハムネット』は、有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの単なる伝記映画ではない。11歳の息子ハムネットを亡くした夫婦が、その深すぎる悲しみとどう向き合い、どのようにして心を癒やしていくかを描いた「喪失と再生」の物語である。

愛する子どもを失うという、言葉では表現しきれないほどの痛みを、映画の中でどのように「音」として表現するのか。本作の音楽を担当したのは、『アド・アストラ』(2019)などの映画音楽を手がけ、現代クラシック界を代表する作曲家であるマックス・リヒターだ。

彼は、映画の中心的なテーマである「母性」や、未知なる「死後の世界」といった目に見えないものを表現するために、女性の合唱や当時の古い楽器などを効果的に用いた。さらに、悲劇の場面ではあえて音を減らし、観客の感情を音楽で無理に操作しないための工夫も凝らしている。

本記事では、マックス・リヒターがどのような視点でこの映画を理解し、どのようにして遺された家族の悲しみに寄り添う音楽を作り上げていったのか、その独自のアプローチを分析していく。

この記事では、以下のポイントを解説します。

  • 「母性」と「死後の世界」を表現した2つの音楽的手法
  • 観客の感情を操作しないための「ミニマリズムと沈黙」
  • 既存曲に変更された、撮影終了4日前のエンディング書き換えの真相
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マックス・リヒターが読み解いた『ハムネット』の音楽的視点

1. アグネスの物語と「母性」の体現:ルネサンスの女性合唱

映画『ハムネット』で、自然と深く結びついた母親アグネスを演じるジェシー・バックリー
リヒターは本作を「アグネスの物語であり、母性の物語」と解釈した。言葉を持たない純粋な女性たちの合唱が、彼女の世界をどう感じていたかを表現している。
Image: Max Richter – Reflecting on Hamnet – YouTube 2026年4月14日閲覧

マックス・リヒターは、映画『ハムネット』の台本を読んだとき、この作品をシェイクスピアの単なる伝記ではなく、何よりも「アグネスの物語であり、母性についての物語」であると解釈した。

物語は妻アグネスの視点を中心に進み、彼女が子どもたちや夫に向ける愛情だけでなく、自然や大地との深いつながりが描かれている。リヒターは、このような家族の強い絆や、さらに大きな意味での「母なる大地」のような宇宙的な母性を音楽で表現しようと試みた。

そのためのアプローチとして彼が選んだのは、壮大なオーケストラを派手に鳴らすことではなく、ルネサンス期(エリザベス朝時代)の音楽にインスピレーションを受けた「純粋な女性の歌声(合唱)」をスコア(劇伴音楽)の中心に据えることだった。

リヒターは、自身の音楽的アプローチについて次のように語っている。

共同体での合唱の原理を、共同体、つまり家族の共同体、そして女性の視点によって形成される共同体を象徴する方法として用いることに興味がありました。この映画はまさにアグネスの世界であり、すべてがアグネスの経験というプリズムを通して見られているように感じさせたかったのです。

音楽 マックス・リヒターConnecting to the Musical Pulse of Hamnetより引用 2026年4月14日閲覧

言葉を持たない純粋な女性たちの歌声を使うことで、映画は説明的になりすぎることなく、「母性」というテーマを透明感を持って観客の心に直接届けている。リヒターの音楽は、悲しみを過剰に押しつけるのではなく、アグネスが世界をどう感じていたかという「感覚」そのものを音に変換しているのである。

2. 未知なる「死後の世界」を描く:古楽器のゴースト(幽霊)

古楽器の音を電子的に加工し、未知なる世界を表現した映画『ハムネット』の音楽
古楽器の「きしみ音」や「摩擦音」を録音し、それをコンピューターで加工した。現実の楽器の音から切り離すことで、言葉の届かない未知の領域を表現している。
Image: Max Richter – Reflecting on Hamnet – YouTube 2026年4月14日閲覧

映画『ハムネット』のもう一つの大きなテーマは、「未知なるもの」、つまり「死後の世界」である。妻アグネスは自然と深く結びついているだけでなく、シェイクスピアの劇中で「まだ誰も見ぬ国( undiscovered country)」と呼ばれる死後の世界を感覚として捉えている人物である。

リヒターは、人間がこの「未知なるもの」にどう対処するかが映画の重要なテーマだと考えた。彼は自身の音楽的視点について、次のように語っている。

この映画の大きなテーマの一つは、私たちが未知のものにどう向き合うかということです(中略)楽譜を分かりやすくしたくなかったんです。それに、『ハムネット』は幽霊の話でもありますよね?だから、楽器の幽霊のような存在を表現したかったんです。

マックス・リヒターHow Max Richter Composed the Haunting, Minimalist Score for Hamnetより引用 2026年4月14日閲覧

この「幽霊の音」を作り出すため、リヒターは非常にマニアックな手法を用いた。彼はヴィオールやハーディ・ガーディ、ニッケルハルパといったルネサンス時代(エリザベス朝)の古い楽器を用意した。しかし、それらを普通に美しいメロディで演奏するのではなく、人間が楽器に触れるときに出る「きしみ音」や「摩擦音」などを録音したのである。

そして、その録音した音源をコンピューターで電子的に加工し、元の楽器の音が分からないように抽象化した。

つまり、単なるヴァイオリンアンサンブルの演奏ではなく、ヴァイオリンアンサンブルの演奏の亡霊、電子的な亡霊のようなものなのです。

マックス・リヒターConnecting to the Musical Pulse of Hamnetより引用 2026年4月14日閲覧

彼が伝統的な楽器そのままの音ではなく、電子的に加工した音を用いたのには理由がある。

誰かがバイオリンを演奏しているのを聴いているとき、脳のごく一部は常に何らかのレベルでバイオリンをイメージしていると思うからです。(中略)電子音では純粋な抽象性を持つことができ、重苦しい感じや一対一の感覚を与えることなく、非常に繊細な方法で感情的な状態とつながることができます。

マックス・リヒターThe Music of Hamnet, with Composer Max Richter | #DolbyCreatorTalks – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

音を電子的に抽象化して現実の楽器から切り離すことで、言葉の届かない「死後の世界」という未知の領域を、神秘的に表現することに成功した。

3. 記憶の余韻と大地の魔法:ピアノとハープの対話

森の中で体を小さくして寝る、ジェシー・バックリー演じる妻アグネス
音が消えゆく「余韻」で過去の記憶を表現するピアノと、神話や魔法と結びつくハープ。この2つの楽器の対話が、見えない絆や神秘的な力を描き出している。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月9日閲覧

映画の音楽(スコア)の中で、マックス・リヒターは主に「ソロピアノ」と「ソロハープ」という2つの楽器を印象的に使っている。この2つの楽器は、別々に鳴るのではなく、それぞれが同じメロディを弾き合う「対話(会話)」のような関係として作られている。

リヒターは、妻アグネスの心の奥にある繊細さを、とてもシンプルなピアノの音色で表現した。彼は、ピアノやハープの音が鳴った後にだんだんと消えていく「余韻(減衰)」の部分に特に注目し、それを過去の「記憶」に見立てている。リヒターは音の仕組みと記憶の関係について次のように語っている。

音が鳴り始めた瞬間が『情報(データ)』だとしたら、その後に続く余韻(尻尾の部分)は、その情報の『記憶』のようなものです。何かが起きたことを教えてくれるその余韻の部分に、私はとても興味を持ちました。ピアノの音の響きには、それ自体の記憶が組み込まれているのです

マックス・リヒターThe Music of Hamnet, with Composer Max Richter | #DolbyCreatorTalks – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

一方でハープは、劇中でウィル(シェイクスピア)が愛するアグネスに語る「オルフェウスの神話」と深く結びついている。神話の中でオルフェウスが竪琴(たてごと)を弾いていたため、このシーンにハープが選ばれたのだ。

さらにハープは、ピアノよりも透き通った音色を持ち、映画全体に漂う民間伝承や、アグネスが持つ大地の魔法、つまり「魔女的な性質」を表現するのにもぴったりな楽器であった。リヒターは2つの楽器の関係性について、こう説明している。

ハープとピアノはスコアを通して会話のような関係を持っています。(中略)私はハープをピアノのより透明なバージョンのようなものだと考えています。(中略)ある種の民俗的な側面にもつながっていると思います。ある種の、大地の魔法の民話、魔女のような性質があります。

マックス・リヒターMax Richter – Reflecting on Hamnet – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

音が消えゆく「余韻」で過去の記憶を表現し、神話や魔法と結びつくハープとピアノに対話をさせる。このような細やかな音楽の仕掛けによって、リヒターは言葉で説明することなく、夫婦の間に存在する見えない絆や、自然の神秘的な力を表現したのである。

4. 感情を操作しないための「ミニマリズムと沈黙」

息子の死による深い悲しみとトラウマを抱え、後に名作『ハムレット』を生み出すことになる父親役のポール・メスカル
「音楽の不在(沈黙)こそが最も真実味のある反応だ」。悲劇の場面であえて音を減らし沈黙を効果的に使うことで、人間の生々しい喪失感に寄り添っている。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月13日閲覧

映画『ハムネット』は、愛する子どもの死という非常に重いテーマを扱っている。このような作品において、作曲家のマックス・リヒターは、音楽が観客の感情を無理にコントロール(操作)することを避けるよう細心の注意を払った。

リヒターは、悲劇的な場面での音楽の役割について次のように語っている。

子どもの死という非常に複雑で難しいテーマを扱う場合、音楽には細心の注意を払わなければなりません。感情をそのままなぞったり、感傷的にしすぎたり、観客に特定の感情を抱くよう誘導したりすることは、非常に問題になり得るからです。つまり、音楽が何らかの形で素材を高めたり、照らし出したりする方法を見つけることが重要なのですが、観客として何らかの形で誘導されていると感じさせないようにしています。

マックス・リヒターMax Richter – Reflecting on Hamnet – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

音楽が悲しみを過剰に強調してしまうと、観客が自ら感じるはずの純粋な感情体験を邪魔してしまう。そのため彼は、使用する音の数を極限まで減らす「ミニマリズム」のアプローチをとり、音楽が出しゃばらないようにした。

さらにリヒターは、抽象画家マーク・ロスコの言葉を引き合いに出し、音楽における「沈黙」の重要性についても語っている。

マーク・ロスコが『沈黙は正確だ』と言ったように、この映画には、音楽がないことが最も真実味を帯びているように感じられる瞬間がある

マックス・リヒターHow Max Richter Composed the Haunting, Minimalist Score for Hamnetより引用 2026年4月14日閲覧

悲劇を前にしたとき、劇的な音楽が鳴り響くよりも、あえて音をなくす(沈黙する)ことのほうが、人間の生々しい喪失感を正確に表現できる場合がある。リヒターは徹底的に音を削ぎ落とし、沈黙を効果的に使うことで、言葉にできない深い悲しみに静かに寄り添った。

奇跡のエンディング:なぜ「新曲」ではなく「既存の名曲」だったのか?

撮影終了4日前に起きた、台本と結末の書き換え

映画『ハムネット』の本来の台本では、結末はとてもシンプルなものだった。劇中劇で「ハムレット」が舞台上で死に、それを見たアグネスが反応して幕を閉じるという流れである。

しかし、撮影が終わりに近づくにつれ、クロエ・ジャオ監督とアグネス役のジェシー・バックリーは、この結末では喪失感からの解放(カタルシス)が十分に表現できないと感じていた。撮影終了のわずか4日前になっても、二人は映画の着地点を見失い、途方に暮れていたのだ。

そんな状況を打破するきっかけを作ったのは、主演のバックリーだった。彼女は監督に、マックス・リヒターが過去に作曲した名曲「On The Nature Of Daylight」にボーカルを加えた楽曲「This Bitter Earth」を送ったのである。

ジャオ監督は、仕事へ向かう車の中でこの曲を聴いた。当時の彼女は私生活でも愛を失う恐怖や悲しみを抱えていたが、曲を聴いているうちに強烈なインスピレーションを受けたという。監督はその瞬間の体験を次のように語っている。

それを車の中で聴いたんです。聴いているうちに、自分の中に何かがこみ上げてきて、思わず窓に向かって手を伸ばしました。車の外の雨に触れようとしたのです。その時、この曲がジェシーと私にもたらしたのは、『ワンネス(すべてが一つに繋がっている感覚)』を呼び起こし、分離しているという幻想を溶かしてくれることだと気づきました。そうすれば恐怖は消え去り、突然…愛を失うことはもうそれほど怖いことではなくなるのです

監督・製作総指揮・脚本・編集 クロエ・ジャオChloé Zhao Reveals How She & Jessie Buckley Found Hamnet’s Ending Four Days Before Wrap | BAFTA – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

車の中で「すべてが一つに繋がる(ワンネス)」というインスピレーションを受けた監督は、急遽エンディングを全く新しいものへと書き換える決断を下した。舞台上で死にゆくハムレットに対して、アグネスが思わず手を伸ばし、周囲の観客たちも一緒に手を伸ばすという結末。

用意されていた新曲ではなく、偶然送られてきた既存の名曲を聴いたことで、監督の心に変化が生まれた。その結果、撮影のギリギリになって、深い悲しみと喪失を乗り越えるカタルシスに満ちた奇跡のエンディングが誕生した。

作曲家リヒターの葛藤と、監督への「絶対的な信頼」

映画『ハムネット』の制作で、絶対的な信頼関係を築いたクロエ・ジャオ監督と作曲家マックス・リヒター
自分が書いた新曲を使いたいというエゴを捨て、監督のビジョンを全面的に支持したリヒター。作品にとって何が一番良いかを優先した決断だった。
Image: Max Richter – Reflecting on Hamnet – YouTube 2026年4月14日閲覧

実は、このエンディングシーンが撮影されていたとき、作曲家のマックス・リヒターはすでにエンディング用の「新曲」を書き上げていた。そのため、彼自身は現場で流されていた既存曲「On The Nature Of Daylight」を、後から自分の新しい曲に差し替えるつもりでいたという。

当時の率直な心境について、リヒターは次のように明かしている。

私の立場からすると、もちろん、「ああ、これを置き換えよう。なぜなら、私には楽譜に対するビジョンがあって、 こうするつもりだから」と考えます。

マックス・リヒターMax Richter Explains How “On the Nature of Daylight” Found Its Way Into Hamnet – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

しかし、クロエ・ジャオ監督からリヒターの元へ、あるメッセージが送られてきた。「なぜこの既存曲を使わなければならないのか」を熱心に語った、20分間にも及ぶ音声メッセージである。それを聞いたリヒターは、監督の考えに完全に納得し、考えを改めることになった。

リヒターは、監督への絶対的な信頼についてこう語っている。

最終的に、クロエが「日光の性質」を使うべき理由について20分間のボイスメモを送ってきて、それがとても説得力があったので、クロエは本当に素晴らしいと思いました。彼女はまさに先見の明のある人だと思います。彼女は、この素材がどのように着地し、どのように機能するべきかについて、並外れた、ある種の内なるビジョンを持っています。

マックス・リヒターMax Richter – Reflecting on Hamnet – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

彼女は素晴らしい映画監督で、映画全体を通して素晴らしい決断をしてきました。そして、このような段階に達し、これは彼女が決めるべき決断です。これは彼女の映画であり、彼女のビジョンです。だから、最終的には、私はそのアイデアを支持しました。

マックス・リヒターMax Richter Explains How “On the Nature of Daylight” Found Its Way Into Hamnet – YouTubeより引用 2026年4月14日閲覧

リヒターは、自分の書いた新曲を使いたいという作曲家としてのエゴよりも、映画にとって何が一番良いかを優先した。彼はジャオ監督の直感とビジョンを信じ、音楽が映画の新しい結末を切り開いたという事実を心から肯定し、支持した。

まとめ:音楽と映像が有機的に結びついた「映画体験」

映画『ハムネット』の音楽制作の裏側には、優れた二人の芸術家による奇跡的な協力関係があった。

「自分が作った新しい曲を使いたい」という作曲家としてのエゴ(個人のこだわり)よりも、作品にとって何が一番正しいかという「感情の真実」を優先したマックス・リヒターの懐の深さ。そして、送られてきた音楽の力に導かれ、撮影の直前であっても物語の結末をより良いものへと書き換えたクロエ・ジャオ監督の柔軟なクリエイティビティ(創造性)。この二つの才能が結びついたことで、映像と音楽が完全に一体となった素晴らしい映画体験が生み出された。

マックス・リヒターが映画音楽制作で集中するのは、そのシーンにはどのような音が鳴っているべきかということ。その結果、美しく、心を洗うような楽曲ができあがる。

「On The Nature Of Daylight」収録アルバム