映画『ハムネット』監督を最初は断るつもりだった?クロエ・ジャオとキャストの制作秘話

映画『ハムネット』で妻アグネスを演じるジェシー・バックリーと若きシェイクスピアを演じるポール・メスカル
喪失と愛を描く映画『ハムネット』で主演を務めるジェシー・バックリーとポール・メスカル。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月10日閲覧

映画『ハムネット』は、1580年代のイギリスを舞台に、ウィリアム・シェイクスピアと妻アグネス、そして11歳で亡くなった息子ハムネットを失った悲しみと家族の愛を描いた歴史ドラマである。

マギー・オファーレルの同名小説を原作とし、『ノマドランド』(2020)でアカデミー賞を獲得したクロエ・ジャオが監督と共同脚本を務めた。

本作は、トロント国際映画祭での観客賞受賞をはじめ、第83回ゴールデングローブ賞で作品賞(ドラマ部門)、第98回アカデミー賞で8部門ノミネートおよび主演女優賞(ジェシー・バックリー)受賞を果たすなど、世界的に高い評価を受けている。

しかし、この映画が誕生するまでの過程には、監督自身の深い悩みがあった。監督の依頼を受けた当時、ジャオは40歳を迎え、自分の人生や目標を見つめ直す時期(中年の危機)の真っ最中にあり、約4年間にわたり映画作りから離れていた。

さらに、彼女自身が「母親」という存在に対して個人的な心の痛みを抱えていた。そのため、子どもを失う母親の悲しい物語を描くことは、自分自身の傷と直接向き合うことになり、最初は監督を引き受けることに強い恐怖を感じ、ためらっていたという事実がある。

その行き詰まりを打ち破り、映画作りを進めるきっかけとなったのは、テルライド映画祭での思いがけない出会いであった。ジャオは同映画祭で俳優のポール・メスカルと偶然出会い、彼の中に「どうしても表現したい」という強い思いや、若き日のシェイクスピアを演じられる才能を直感的に見抜いた。

同時に、主人公のアグネス役には、カメラの前で完全に飾らない自分をさらけ出せる俳優が絶対に必要だと考えていた彼女は、ジェシー・バックリーが持つ特別な雰囲気に触れた。そして、彼女の参加が決まったことで、ジャオはようやく本作の監督をする決意を固めたのである。

本記事では、こうした監督の個人的な苦悩と、映画祭という場がもたらした運命的な俳優たちとのめぐり合わせという製作の背景を探りながら、この映画がどのように作られていったのかを分析していく。

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映画作りから離れた4年間と「母親の物語」への恐怖

映画『ハムネット』でシェイクスピアの子供たち(ハムネット、スザンナ、ジュディス)を演じる子役たち
クロエ・ジャオ監督が向き合うことに強い恐怖を感じていたという「母親の物語」の中心となる子供たち。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月10日閲覧

クロエ・ジャオ監督は、大ヒット作を作った後、約4年間にわたって映画作りから距離を置いていた。40歳という年齢を迎えた彼女は、自分の人生の目的を見失い、深く悩む時期(中年の危機)の真っ最中にあった。

あなたは、この話が持ち上がった当時の自分の心境を、半ば冗談めかして「一種のミッドライフクライシス」と表現したと思います。

賞レースコラムニスト スコット・ファインバーグ‘Hamnet’ Filmmaker Chloé Zhao, Steven Spielberg, Sam Mendes & More on their Journey to the Oscars – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

監督自身を「堆肥化」した苦悩のサナギ期間

この映画作りをお休みしていた期間を、ジャオ監督は自らを「堆肥化(composting)」するプロセスだったと振り返っている。それは、古い自分を一度ドロドロに溶かして土に還し、新しい命の肥料にするような、サナギから蝶になる前のような非常に苦しく辛い時間であった。

誰にも経験してほしくないほど苦痛なものでしたが、同時に、すべての人に経験してほしいとも思うようなプロセスでした。(中略)自分自身を3、4年かけて堆肥化しているような感覚でした。

監督・製作総指揮・脚本・編集 クロエ・ジャオChloé Zhao On ‘Hamnet’, Saying No To Spielberg, & Fears For The ‘Buffy The Vampire Slayer’ Reboot – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

母親という存在への深いトラウマと時代劇への不安

そんな苦悩の時期に『ハムネット』の監督の依頼が舞い込んだが、彼女は最初、これを引き受けることに強く尻込みした。

最大の理由は、彼女自身が「母親」という存在に対して個人的な深い心の痛み(マザー・ウーンド)を抱えていたからだ。自分には子どもがいないのに、子どもを失う母親の悲劇を描くことは、自身の傷を直接こじ開けることになり、強い恐怖を感じていたという。

私は母親ではないし、子どももいません。だから、子どもを失う母親の物語を描けるとは思えませんでした。私にとって『母親』という存在は、深く掘り下げるにはとても敏感なキャラクターなのです。(中略)最初の『ノー』という反応は、自分の中の何かが引き金になったからで、吐き気さえ感じました

クロエ・ジャオChloé Zhao On ‘Hamnet’, Saying No To Spielberg, & Fears For The ‘Buffy The Vampire Slayer’ Reboot – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

だからこそ「母親像」というものを意図的に避けており、過去作ではまったく登場させていないという。

さらに、ジャオ監督にとって昔の時代を舞台にした映画(時代劇)を作るのは今回が初めての挑戦であり、シェイクスピアのこともそれほど詳しく知らなかった。これまで現代の現実世界ばかりを映画にしてきた彼女にとって、はるか昔のイギリスを描くことは大きな不安の種であった。

テルライド映画祭での奇跡①:ポール・メスカル(若きシェイクスピア)との出会い

映画『ハムネット』で若き日のウィリアム・シェイクスピアを熱演するポール・メスカル
監督に「噛み付くような内なる狼がいる」と表現の衝動を見出され、若きシェイクスピアを演じたポール・メスカル。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月10日閲覧

スティーヴン・スピルバーグの製作会社(アンブリン)から監督の依頼の電話を受けた数時間後、ジャオ監督はニューメキシコの砂漠を車で走り、テルライド映画祭の会場に到着した。そして、そこで俳優のポール・メスカルと初めて顔を合わせることになる。

メスカルの中に見た「噛み付くような内なる狼」

当時、彼が出演した映画『aftersun アフターサン』(2022)はまだ公開前だったため、監督はメスカルのことをまったく知らなかった。しかし、彼と一緒に散歩をした際、その内面からあふれ出る特別なエネルギーに気づき、「若き日のシェイクスピアを演じられるのは彼しかいない」と直感したという。

彼は神経質なエネルギーを放っていました。まるで狼に食い荒らされているような感じでした。創作への衝動が、もし追い払われなければ、彼を食い尽くしてしまうだろう、と。それで私は、「若いシェイクスピアを演じられると思いますか?」と尋ねました。

クロエ・ジャオChloé Zhao and Bradley Cooper Go Super Deep on “Hamnet”より引用 2026年4月10日閲覧

監督から突然そう尋ねられたメスカルの反応は、監督をさらに驚かせるものだった。なんと、彼は『ハムネット』の原作小説の大ファンだったのだ。監督が「私にこの映画が作れるか自信がない」とためらいを打ち明けると、メスカルは逆に監督の背中を熱く押した。

彼は『待って、それってハムネットのこと? なんてことだ、僕はあの本が大好きなんだ』と言いました。私がためらっていると、『僕を信じて。これはよくある歴史フィクションじゃない。絶対に読むべきだ。あなたが絶対に探求したくなるようなテーマが描かれているから』と説得してきたのです

クロエ・ジャオChloé Zhao On ‘Hamnet’, Saying No To Spielberg, & Fears For The ‘Buffy The Vampire Slayer’ Reboot – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

監督を引き受けることに強い恐怖を感じていたジャオ監督だったが、この運命的な出会いとメスカルの熱い言葉に後押しされ、ついに原作小説を読んでみる決意を固めたのである。

テルライド映画祭での奇跡②:アグネス役の絶対条件を満たしたジェシー・バックリー

映画『ハムネット』で主人公アグネスを演じるジェシー・バックリー
すべての仮面を脱ぎ捨て、カメラの前に完全に飾らない自分をさらし、アグネスの魂を体現したジェシー・バックリー。
Image: HAMNET – Official Trailer [HD] – Only In Theaters This Thanksgiving – YouTube 2026年4月10日閲覧

ポール・メスカルの熱い説得によって、ついに原作小説を読んだジャオ監督は、物語の深さに心を動かされ、自分にも理解できる内容だと感じた。

しかし同時に、主人公であるアグネス役を演じる俳優がいなければ、自分にこの映画は作れないとも気づいていた。

監督はアグネス役に、カメラの前ですべての仮面を脱ぎ捨て、完全に飾らない自分をさらし、物語に身を委ねられる俳優を絶対に必要としていたからだ。

仮面を脱ぎ捨てて、カメラに完全に身を委ねてくれる人が必要だったんです。彼女が何かを抑えているように見えたり、アングルを気にしていたり​​すると、観客は離れてしまいます。その瞬間瞬間に存在してくれる人が必要で

クロエ・ジャオChloé Zhao and Bradley Cooper Go Super Deep on “Hamnet”より引用 2026年4月10日閲覧

ジェシーの持つ飾らない姿や特別な雰囲気に触れたジャオ監督は、「アグネス役はジェシー・バックリーしかいない」と強く確信した。

そして、エージェントを通じて面会の約束を取り付け、ジェシーがアグネス役を引き受ける契約書にサインをしたその瞬間に、監督はこれまで迷っていた映画化の依頼を正式に引き受け、「イエス」と返事をしたのである。

アグネス役がいなければ、自分にこの映画が作れるとは思えませんでした。だからすぐに、それはジェシー・バックリーしかいないと分かったのです。(中略)彼女がサインをして契約したとき、そこで初めて私は(監督のオファーに)『イエス』と言ったのです

クロエ・ジャオChloé Zhao On ‘Hamnet’, Saying No To Spielberg, & Fears For The ‘Buffy The Vampire Slayer’ Reboot – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

【おまけの裏話】巨匠スピルバーグへの返答の真相

海外のメディアでは、「ジャオ監督は最初、映画界の巨匠であるスティーヴン・スピルバーグからの監督依頼を『ノー』と断った」という噂が広まっていた。しかし、本作のプロデューサーたちが集まったインタビューの場で、監督自身がその噂をきっぱりと否定している。

記録に残しておきたいのですが、スティーヴンから電話をもらったとき、私は『ノー』とは言っていません。そんな噂が広まっていますが、実際には『考えさせてください』と答えたのです。しかも、その時は電話の電波も悪かったんです

クロエ・ジャオ‘Hamnet’ Filmmaker Chloé Zhao, Steven Spielberg, Sam Mendes & More on their Journey to the Oscars – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

この発言に対し、プロデューサーとして同席していたスピルバーグ本人も笑いながら同意し、当時の彼女の慎重な様子を次のように振り返っている。

そう、あなたは決して『ノー』とは言わなかった。『面白そうですね』と言ってくれて、それがすぐに引き受けるという約束ではないことは分かっていたけれど、『ノー』でもなかった。

スティーブン・スピルバーグ‘Hamnet’ Filmmaker Chloé Zhao, Steven Spielberg, Sam Mendes & More on their Journey to the Oscars – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

世界的な大物プロデューサーからの依頼であっても決して焦って即答せず、森の小鹿のように用心深く物語や自分自身の心と向き合おうとする姿勢は、ジャオ監督の誠実な人柄が伝わってくる微笑ましいエピソードだ。

まとめ:喪失を乗り越え「再生」へと向かう物語

自分自身の深い心の傷(トラウマ)や恐怖と真正面から向き合い、ポール・メスカルやジェシー・バックリーという運命的な俳優たちとの出会いを経て、ついに完成した映画『ハムネット』。

ジャオ監督は、この映画を作る過程で、長年「母親」という存在に対して抱え続けてきた複雑な痛みを、安全に表現できる場所をようやく手に入れた。彼女は自分を見失いかけていた中年の危機(ミッドライフ・クライシス)という苦しい時期を、のちに次のように振り返っている。

ミッドライフ・クライシスは自分に起こり得る最高の出来事です。なぜなら、それは『再生』へ向かっているということだからです

クロエ・ジャオChloé Zhao Made ‘Hamnet’ During a Midlife Crisis – YouTubeより引用 2026年4月10日閲覧

クロエ・ジャオ監督は古い自分を一度ドロドロに溶かして土に還すような辛い停滞期を越え、『ハムネット』の制作と向き合うことで、その危機を「最高の出来事」ととらえ直し、力強く「再生」への道を歩んだ。

アカデミー賞監督賞受賞作