Image: The Odyssey – In Studio: Ludwig Göransson / YouTube 2026年9月12日閲覧 オーケストラに代わり劇中の音響・劇伴の核となったブロンズ製銅鑼は35枚も集められた。(© 2026 UNIVERSAL STUDIOS)
クリストファー・ノーラン監督が描く古代ギリシャの英雄オデュッセウスの壮絶な帰郷劇『オデュッセイア』。本作は劇伴からオーケストラを完全に排除し、青銅や環境音を鳴らす前代未聞の音響設計を打ち立てた。復元された古代楽器と現代のラップが交錯し、神話の裏に潜む本物の戦の息遣いを浮き彫りにする。
オーケストラを排除した「マテリアル音響」とイタケに現れた現代の吟遊詩人
伝統を拒絶した「ブロンズと呼吸」のオーケストラなき音響設計
映画『オデュッセイア』では、歴史大作の定番であった19世紀ロマン派オーケストラによる劇伴が一切使われていない。この時代にオーケストラなどは存在しないからだ。従来のハリウッド史劇が持つ華やかな管弦楽の様式美を打ち破り、古代の音響をゼロから再構築する試みが敢行された。音楽を手掛けたルドウィグ・ゴランソンは、物語の舞台である「青銅器時代」そのものの素材に着目するようノーランから依頼された。
大小さまざまな青銅製の銅鑼(ゴング)を35個レンタルし、ゴランソンは実験を重ねた。ゴランソンはスタジオの外部にも飛び出し、金属の手すりやスクラップ、エアコンの室外機などを叩いて本作のテーマとなる音を探した。さらに、マイクを金属表面へ極限まで近づけ、最大感度で録音しながら極めてソフトに叩く実験的な録音手法も導入した。生音とシンセサイザーの融合により、観客が一度も耳にしたことのない「砂と金属」の質感が創出される。音響そのものが古代世界の過酷な質感を物語る。
イタケの王宮で「ラップ=口承伝統」を体現したトラヴィス・スコットのBard
物語の冒頭、イタケの宴会ホールでテーブルの上に立ち、トロイア戦争の伝説を語る吟遊詩人デモドコス(Bard)が登場する。この役を演じたのは人気ラッパーのトラヴィス・スコットだ。ノーラン監督は、古代ホメロスの叙事詩が歌として語り継がれてきた口承伝統は、現代のラップと完全に同義であるとTIMEの取材で語っている。言葉のリズムで歴史を刻む表現者が抜擢された。『TENET』以来のゴランソン、スコットのタッグが組まれた。
スコット演じる詩人は、「一筋の閃光、艦隊、戦争、一人の男、罠」といった言葉を叩きつけるように紡ぎ出し、英雄主義的なトロイア戦争の記憶を威厳たっぷりに歌い上げる。この美化された詩は、劇中でオデュッセウス自身が明かす戦争トラウマに満ちた泥臭い真実と鮮烈な対比をなす。口承詩が本来持っていた多層的な構造が劇中で提示される。歴史の語り口そのものが音響として多重化していく。

2000年の沈黙を破る古代楽器の蘇生と、感情を揺さぶる「弓と声」の共鳴
古代ギリシャの「ロックスター」アウロスの復元と、弦楽器(ライアー)に宿る武器の波動
Image: The Odyssey – In Studio: Ludwig Göransson / YouTube 2026年9月12日閲覧 2000年の時を経て復元され、作中で過激な高音を叩きつける古代ギリシャのロックスター的楽器アウロス(© 2026 UNIVERSAL STUDIOS)
古代文献や考古学的な土器の絵をリサーチし、かつて普及していた伝説の楽器「アウロス」と「ライアー(竪琴)」が復元・演奏された。2本の管を同時に吹くアウロスは、古代ギリシャにおいてロックスターにとっての「エレキギター」のような存在だったとゴランソンはUniversal Pictures Trinidad and Tobagoが公開した公式映像で語っている。アウロスはローマ教会の禁止令により約2000年間途絶えていた歴史的背景を持つ。その過激な高音が作中で現代的に解き放たれる。
一方、竪琴の弦を弾く音は、劇中でオデュッセウスが自らの弓を引き絞り、弦を鳴らす物理的な効果音と見事に合致するように設計された。音楽と劇中の武器が放つ波動が一体化し、聴覚的な衝撃を増幅させる。弓を射る動作そのものが音楽へと昇華していく。音と映像が密接に噛み合う。
オーケストラに代わる感情の媒介――ジェームズ・ブレイクの「声」とリセット・リズム
安易に観客の涙を誘うストリングスを避けるため、ゴランソンは「人間の声」そのものを最も感情を揺さぶる楽器として選んだ。ジェームズ・ブレイクの幽玄なボーカルが実験的なサウンドスケープに重ね合わされる。弦楽器なしで静かな親密さと人間味を演出するロジックの徹底である。声の存在感が観客の胸を締め付ける。
トロイア攻略戦の深夜の攻防やラストの玉座の間での大虐殺では、無限に加速するテンポ構造「リセット・リズム(Risset Rhythm)」が採用された。ノーラン監督はEntertainment Weeklyのインタビューにおいて、映画『ダンケルク』で作曲家ハンス・ジマーとともに初めて採用した音響構造であると説明した。無限に音高が上がり続けるように聞こえる「シェパード・トーン(Shepard Tone)」のリズム版にあたり、テンポが途切れることなく加速し続けることで聴き手に終わりのない焦燥感とパニックを与える仕組みだ。同インタビュー内で、トム・ホランドはこの加速し続ける音楽について「追いかけられているような感覚になり、体がよじれるほど緊迫感があった」とその体験を語っている。
「耳で見る」古代:美化された歴史のノイズを剥ぎ取る鑑賞の革新
映画の結末において、オデュッセウスは文字文化が消滅する暗黒時代の到来を察知し、自分たちの悲惨な過ちが忘れ去られ都合よく美化された「歌」だけが残ると口にする。劇中の冒頭と結末を彩る主題歌「When I’m Home」は、ノーラン監督自身が作詞に参加し、トラヴィス・スコットとジェームズ・ブレイクらが完成させた楽曲だ。エンドロールで耳にする流麗な歌声は、まさに後世に作られた「美化された帰郷の伝説」そのものを象徴している。伝説の裏に隠された真実が静かに響き渡る。
オーケストラの装飾を剥ぎ取り、ブロンズの鳴動やアウロスの悲鳴を響かせたサウンド設計は、物語の嘘をあばく装置として機能する。3000年前に生きた人々が流した本物の血や恐怖の呼吸を、ダイレクトに現代の観客の耳へ届けるためだ。単に心地よい劇伴に身を委ねるのではなく、音の裏側に潜む歴史の罪悪感を捉える鑑賞体験がここに提示されている。美しい音の皮膜を破り、剥き出しの真実が耳から脳裏へと刻み込まれる。







