映画『箱の中の羊』の「多重の家」と「森」が意味するもの。建築とロケ地(広島)から読み解く

映画『箱の中の羊』本編映像より、甲本夫婦とヒューマノイドの翔が過ごす箱のようなデザインの家
実在するモダニズム建築の邸宅が、映画の深いテーマを象徴する重要な舞台となっている。
Image: カンヌ国際映画祭コンペ部門出品!『箱の中の羊』予告編90秒 / YouTube 2026年5月24日閲覧

映画『箱の中の羊』には、ヒューマノイドといったSF的な要素だけでなく、登場人物の職業や住んでいる「家」、物語の鍵を握る「森」といった空間そのものに深い暗喩(メタファー)が込められている。

この記事では、単なるロケ地の紹介にとどまらず、「多重の家」という特異な建築物や、ロケ地である広島の自然がストーリーにおいてどのような意味を持つのかを読み解いていく。監督独自の視点と合わせて、空間が語る映画のテーマを考察する。

スポンサーリンク

主人公夫婦が暮らす「多重の家」が持つ暗喩とは?

映画『箱の中の羊』より、ヒューマノイドの翔が眠る箱型の充電ポッド
劇中に登場する家や充電ポッドは、「目に見えないものを想像するための容れ物」として機能している。
Image: 『箱の中の羊』【5/29(金)公開】予告編15秒① / YouTube 2026年5月24日閲覧

重なり合う箱のモダニズム建築と『星の王子さま』のリンク

建築家の妻・音々(綾瀬はるか)と大工の夫・健介(大悟)が暮らす自宅は、中庭を囲むように箱状の空間が積み重なった構造のモダニズム建築である。

この「箱」という形は、映画の大きなテーマの一つになっている。映画のタイトルは、フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』から取られている。この小説には、「箱の中に羊がいる」と想像する有名なエピソードがある。

これについて、是枝裕和監督は次のように語っている。

人間はかつて、箱の中に何が入っているかを想像する力を持っていました。今、その能力は大きく失われています

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 Hirokazu Kore-eda says human imagination still matters in the age of AI – The Japan Times より意訳・引用 2026年5月24日閲覧

ヒューマノイド自身や、彼の充電ポッド、そして音々が設計した建築的に精密な家はすべて、目に見えないもの、想像されたものを入れるための容器なのです。

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 Hirokazu Kore-eda says human imagination still matters in the age of AI – The Japan Times より意訳・引用 2026年5月24日閲覧

劇中に登場する重なり合う箱の家や、ヒューマノイドが眠る充電ポッドは、現代人が失いつつある「目に見えないものを想像するための容れ物」として機能している。

鎌倉に実在する「建築家と大工の夫婦」の家での撮影

実は、この特徴的な箱の家は、映画のために作られたセットではない。鎌倉にある実在の邸宅を、そのまま借りて撮影が行われた。

さらに驚くべきことに、この家を建てて暮らしているのは、映画の設定と全く同じ「建築家の妻と建設業界で働く夫」の夫婦である。

実際の家は、お子さんと一緒に暮らしているご夫婦が建てたものなんです。奥様は建築家で、ご主人は建設業界で働いていらっしゃいます。まさに物語のキャラクターと同じなんです。そのお宅をそのままお借りしました。この家は、映画全体の土台になってくれました。

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 Japanese Cinema’s Great Humanist, Hirokazu Kore-eda, Tackles Our AI Era in ‘Sheep in a Box’  より意訳・引用 2026年5月24日閲覧

このように、フィクションの物語の中に現実の要素(実際に同じ職業の夫婦が暮らす家)をそのまま持ち込むことで、映画のリアリティがより一層高まっている。

「建築家と大工」という職業に込められた人間性の対比

映画『箱の中の羊』予告編より、手作業で建築模型を作る音々
AIが効率的に答えを出す時代において、試行錯誤する「無駄なプロセス」が人間らしさとして描かれる。
Image: 映画『箱の中の羊』特報予告映像【5月29日(金)全国公開】 / YouTube 2026年5月24日閲覧

木(自然)とガラス(人工)の共存が表す夫婦のコントラスト

主人公である甲本夫婦の職業は、妻の音々が建築家、夫の健介が大工(工務店社長)である。この職業の設定も、人間とテクノロジー(AI)の関係性を語るうえで重要なメタファーになっている。

是枝監督は、対極にあるものがどのように共存できるかを探るため、この2人をキャスティングしたと海外メディアのインタビューで語っている。

私は、二つの異なる要素がどのように共存できるかを探求したいと思いました。映画の中の建築に見られる、ガラスと木の組み合わせのようにです。その意味で、二人を並べたときに際立つコントラストを生み出すために、彼らをキャスティングしたのです。

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 Hirokazu Koreeda talks AI-inspired new film ‘Sheep In The Box’ and his Cannes nerves: “It can be a tough crowd” | Features | Screen より意訳・引用 2026年5月24日閲覧

ガラスのような透明感と人工的な美しさを持つ音々(綾瀬はるか)と、木のように自然で人間臭い・泥臭さを持つ健介(大悟)。この2人の対照的な持ち味は、建築における「ガラスと木」の組み合わせと重なっている。人工物と自然という対極の要素が、ひとつの「家(家族)」の中で共存している。

手作業による建築模型づくりが示す「無駄(プロセス)」の価値

劇中には、建築家である音々が紙や木を使って、手作業で建築模型を作るシーンが登場する。ある日、彼女が模型を作っていると、ヒューマノイドの翔が計算によって効率的に「答え」を出そうとする。それに対し、音々は手軽な解決策を拒み、「その部分を奪わないで」と感情をぶつける。

すぐに正しい答えを出してくれるAIを使えば、手作業にかかる時間は省ける。しかし、あえてアナログな手法を選ぶ音々の姿には、監督の強いメッセージが込められている。

私が最近よく考えるのは「プロセス」についてです。日本語では、このような活動を「無駄」という言葉で表現することがあります。浪費や骨折り損、あるいは直接的な価値を何も生み出さない努力、と訳されるような言葉です。しかし、私はその状態で過ごす時間こそが、人間を人間たらしめていると感じるのです。(中略)AIは、基本的には「答え」だけを提示してくれるという約束をしてくれます。多くの文脈において、それは確かに時間を節約してくれますし、「無駄」を排除してくれます。しかし、最終的にはあまり心地よいものではないんですよね。そこには何のメリットもない。それは、ゲームをプレイせずに答えだけを与えられるようなものです。

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 Japanese Cinema’s Great Humanist, Hirokazu Kore-eda, Tackles Our AI Era in ‘Sheep in a Box’  より意訳・引用 2026年5月24日閲覧

すぐに答えが手に入る時代において、あえて時間をかけて悩み、試行錯誤する。一見すると「無駄」に思えるそのプロセス(過程)そのものにこそ、人間らしさが宿るのだということが、彼女の手作業を通した建築手法によって描かれている。

ロケ地・広島の「熊野の大トチ」と「森」が象徴するAIの未来

映画『箱の中の羊』予告編より、AIの向かう先として描かれる「熊野の大トチ」
広島県庄原市にある天然記念物「熊野の大トチ」。AIが親和性を持ち、繋がっていく「マザーツリー」として象徴的に描かれている。
Image: カンヌ国際映画祭コンペ部門出品!『箱の中の羊』予告編90秒 / YouTube 2026年5月24日閲覧

監督が全国を探し求めた天然記念物「熊野の大トチ」

物語の終盤、ヒューマノイドの翔が向かう象徴的な「森」のシーンは、広島県庄原市にある天然記念物「熊野の大トチ」で撮影された。

是枝監督は、富士の樹海などを含め、条件に合う木を求めて全国を探し回った末にこの場所にたどり着いたという。ロケ地選びの基準について、監督は次のように語っている。

そこに10人子供が暮らせるぐらいの大きな木がいいなと思ってました

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 【最新作】是枝監督に聞いた「箱の中の羊」広島ロケも|綾瀬はるか|大悟(千鳥)|HOME広島ニュース – YouTube より引用 2026年5月24日閲覧

この巨大な木は、単なる背景ではなく、映画のテーマを表現するための重要な役割を担っている。

AIが向かう先としての「マザーツリー(母なる木)」という独自のビジョン

西洋のSF映画では、AIが人間を超越すると、人間に反乱を起こして支配するという展開が描かれがちである。しかし、是枝監督が描くAI観はそれとは全く異なる。監督は、独自の知性を持ったAIはいずれ人間に関心を持たなくなり、より大きな自然のネットワークと繋がっていくと考えている。

そのインスピレーションの元になったのが、地中で菌根ネットワークを通じて情報や栄養をやり取りして繋がっている「マザーツリー(母なる木)」という考え方だ。

木というか森というものが持ってる知性というのが、目に見えない形で横の連携を取って繋がっていて、ある種社会を作っているっていうそういう本を読んだ時にすごく触発されました

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 千鳥・大悟、妻役・綾瀬はるかとの設定にショック!?カンヌでも会場を沸かせる『箱の中の羊』第79回カンヌ国際映画祭 記者会見 – YouTube より引用 2026年5月24日閲覧

生成AIがもし独自の知的体系を 持ちうるとすると、人間よりは森林に近いのではないか、ということを書かれている方がいて、その着想がとても面白かった。目で見えないものでつながっている。そこがむしろ親近感を持つという形にしてみようと思った。

監督/原案/脚本/編集 是枝裕和 是枝裕和監督に単独インタビュー 最新映画「箱の中の羊」で描くAI (2026年5月11日掲載)|広テレ!NEWS NNN より引用 2026年5月24日閲覧

人間を超えたAIは、人間と対立するのではなく、地中で目に見えない繋がりを持つ「森」というより大きな存在に対して親和性を持ち、そこへ結びついていく。これが、本作で提示される独自のビジョンだ。

まとめ:「箱(家)」から「森」へ巣立つAIが問いかけるもの

映画『箱の中の羊』では、「人工的な箱(家)」と「有機的なネットワークを持つ森」という2つの空間が見事な対比として描かれている。

ヒューマノイドである翔は、目に見えないものを想像するための容れ物である「箱(家)」の中で両親と過ごす。しかし、やがて彼は人間の枠組みを超え、親の元を離れて、自分たちと似たネットワークを持つ「森」へと巣立っていく。

AIは人間を脅かす敵ではなく、いずれ親を超えていく子どもであり、より大きな自然と繋がっていく存在である。そんな是枝監督の深い死生観や独自のAI観が、この空間の移動によって見事に表現されている。